平 学さんインタビュー(東北ジャム2018 in 福島あだたら 実行委員長/前編) | Road to 2026.3.11 Sendai
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Road to 2026.3.11 Sendai
東北ジャム 2018 in 福島あだたら
日程:2018年5月12日(土)
場所:福島県二本松市 スカイピアあだたら
主催:東北ジャム実行委員会
宮城県を出て、福島県で初の開催をした東北ジャム 2018 in福島あだたら。
スカイピアあだたらアクティブパークがオープンして間もないタイミングで、柿落としとして開催し、スカイピアあだたらアクティブパークの存在を多くの方にしっていただくきっかけになりました。
スカイピアあだたらアクティブパークを運営する一般社団法人F-WORLDは、次世代を担う子ども達に福島の恵まれた自然の素晴らしさや、福島の自然を活かしたスポーツの楽しさを伝え、福島の現状を発信すべく、「福島インドアパークプロジェクト 〜チャンネルスクエア〜」を実施しています。
そんなチャンネルスクエアの代表でもあり、東北ジャム2018 in 福島あだたらの実行委員長を務めたの平 学さんに、東日本大震災当時のことから、これまでのチャンネルスクエアの活動、そしてこれからの活動に聞いてきました。

平 学さんインタビュー(前編)
平 学(一般社団法 人F-WORLD代表理事/東北ジャム2018 in 福島あだたら 実行委員長)
北村 孝之(ボランティアインフォ)
北村:
ご無沙汰してます!
今回は東日本大震災から15年のタイミングで仙台にHi-STANDARDがツアーで来るということで、これまでの東北でのAIR JAMや東北ジャムを振り返りつつ、これからのことを考えていければと思って、インタビューをさせてもらってます。よろしくお願いします!
平:
よろしくお願いします!
北村:
さっそくですが、東日本大震災が発生した当時のことを教えてもらってもいいですか?2011年3月11日はどちらにいらっしゃいましたか?
平:
アルツ磐梯スキー場で、全国のトップ選手を呼んで大会をやる前日で、リハーサルとテスト走行するというタイミングで、地元の番組が取材に来てて、ちょうどそこでインタビュー始まりますっていう時に地震が来たんです。
山が揺れてました。雪崩も発生したし、リフトも乗車してる人いたけど外れちゃって、救助されてたり、アルツ磐梯のレストハウスのシャンデリアが外から見てても、めちゃくちゃ揺れてて、全員避難してきて、もう地面と雪の層がずれてるのが分かるんですよ、交互に。
北村:
それは怖いですね…
平:
これはただ事じゃないなって、こんな地震は経験したことないなって思ったけど、次の日は全国のトップ選手を呼んで大会するっていう、すべて作り込みが完了した状態だったし、次の日から試乗会をやろうとしていたメーカーさんもほぼ来てたんだけど、でも一回ちょっと冷静になろうってなって、まずはボランティアで手伝いに来てくれた方も含め、自分の家族の状態とか、そういったものを各自まず無事か確認しておりましょうと。
でもこれは尋常じゃないから、各自帰れるタイミングで帰ろうと、中止命令を出したんですよ。あの時はツイッターしかなかったので、ツイッターに中止ですと出して、身の安全のために皆さん戻ってくださいって改めて伝えました。
そうは言っても明日からのイベントのこともあって、スポンサーさんもついてくれてたイベントだったけど、もうこれは払い戻ししかないでしょと思って、アルツ磐梯さんと話をしましたね。
北村:
イベント運営側としては痛いところですね。
平:
でもこれは自分も経験したことが規模の災害だから、ひとまず冷静になって自分たちが、設営したものは次の日に片付けようって。
あの当時、土砂災害があったりとか、橋桁が外れたとか、4号線がストップしてたし、高速道路もストップですみたいな、いろんな情報が流れてたんだけど、万が一余震が来た時に土砂災害になるとあれから、そこだけ慎重に、とにかく家族の安否をまず連絡取り合っていこうと。
次の日片付けをして、片付け終わってから、次の日の午後ぐらいに帰れたのかな。その時スノーボード・サーフィン・スケートボードショップを運営してたので、自分の家と2店舗のお店どうなってんだろうってところで帰ってきたら、全部破損状態でした。
家もひび割れていて、もうタンスなんかも、回っちゃってて、でも倒れなかったから良かったねって思って。
北村:
ご家族は大丈夫だったんですか?
平:
当時2歳と小学1年生の娘がいて、たまたま実家に帰ってたから、怪我とかもなくて。そのまま実家で待機しててねって言って。
仲間がプロのスノーボーダーが片付けを手伝いに来てくれてて、そこでお昼にカップラーメンを食べようかって休憩しながら、ガラケーのテレビ見てたら、原発がってニュースが出て、全局福島第一原発の緊急放送に切り替わって、待ってここから直線距離で50kmじゃんって。
北村:
そうか、そのタイミングで原発だったんですね。
平:
手伝ったくれてた彼が、2日後にはフライトでアラスカに行かないといけなかったので、もう一泊する予定だったけど、もうすぐ行った方がいいって。
カップラーメンも半分残してる状態で判断して、すぐ行ったんだけど、これはもうとんでもない状況になってるから、最初はちょっと自分でもどうしていいか分かんないってなってたけど、そこからずっと自分ができることは何かなって考えて、まずは数日経ったタイミングで、マイクロバスがあったんで、避難している人たちに物資を届けようということで、ツイッターで、「皆さんご協力お願いします」って呼びかけたら、1万5000点くらいうちのお店に届いて、それを選別して、松島の仲間がいたところに中学校に届けたりとか、南相場に持って行ったり、大熊の人たちが岳温泉に避難してたから、そこにも届けたかな。
3週間ぐらいそれをやったんですけど、この頃にもう俺の役割は違うなって思ったのかな。やっぱり再生的なものとか、これから残された子どもたちの未来をどうしていくかっていうことを考えていかないといけないなって。
北村:
平さんのご自宅の線量がすごく高かったって聞いたことありましたけど、どれくらいだったんですか?
平:
最高は約48マイクロシーベルト。家の中で12マイクロシーベルトくらいあったかな。もうずば抜けた線量だったから、これは住めるレベルじゃないですって言われて、最初はガイガーカウンター壊れてるんじゃないかって思って、3つくらい集めて測ったけど、全部高い数値で。
家の屋根がコロニアルって素材使ってて、あれって流れないんだよね。付着してるだけなら高圧洗浄で除染できるけど、やってもダメで、壁の中に浸透しちゃってて。
不安のまま住むことできないから、自分の自宅兼会社のお店を、どうするかっていうことを後からちょっと考えようっていう。
北村:
目に見えないっていうのが怖いですよね。
平:
何が起きたかわかんないし、匂いないし、物質が見えないし、初めて聞く言葉ばっかだし、もうこれってここで生きれるのかなって。
で、当時すごい風評被害で、福島ナンバーの車とか、福島県から東京の大学の入試に行った人は後回されるとか、居酒屋とかガソリンスタンドで働いてる若者が、俺にこんなこと言われたんですよって言いに来て、それを聞いてカチッってなったけど、でもそういう福島を攻撃するような、近寄るなとかっていう感じで言われた時に、この悔しさをバネにする方法っていうのは何だろなって考えて、震災前からGO FOR ITっていうイベントを元々やってたんだけど、5月のゴールデンウィークに猫魔スキー場を貸し切って、GO FOR ITをまたやって、それが今のチャンネルスクエアの活動の始まりだったかな。

あの時はまだチャネルスクエアっていう名前じゃなかったけど、音楽のライブであったり、スノーボードしたり、スケートボードしたり、サーフィンは映像で見て、応援してくれた人たちから募金を集めて、それを南相馬に届けましょうっていう活動をやったんですよ。
その猫魔スキー場の音楽ライブからMAN WITH A MISSIONのボーカル、トーキョータナカさんと出会って、音楽以外でも福島の復興のために、そして子どもたちの未来のために、本当にいろんな活動や、全力でサポート、応援、協力をしていただきました。
自分にとっても生きる力をいただいたトーキョータナカさんに、本当に支えていただきました。

北村:
そこが始まりだったんですね。
平:
そういう状況になって、福島の資源と自然に仕事させてもらってたんだなって、日に日に分かってきて、線量があるから外に行かないとか、土に触らないとか、海にも入れないとか、山もそうだ、水も飲めない…って世間はなってるけど、そうじゃなくて、今まで仕事させてもらってた自然に、俺はなんか恩返ししたいなっていうことがきっかけで、自然発祥で生まれたスポーツ施設をインドアに作ろうとなって、福島の仲間たちと一緒に始めたのが、チャンネルスクエアの始まりなんだよね。
だからインドアパークプロジェクト、チャンネルスクエア。
様々な自分のチャンネルを作れる、人とのコミュニケーションができる場所を作ろうと。
そういうのがもうずっと2011年から伝え続けてきて、日本全国の方の想いを形にした場所が、このスカイピあだたらアクティブパークなんだよね。
北村:
最初のチャンネルスクエアのインドアパークってどこだったんですか?
平:
最初は福島駅近くのまちなか広場前にお店があって、そこにモデルパークっていう形でスラックライン、ボルダリング、スケートのランプがあって、目の前の広場で2011年の10月にEXILEのÜSA君とか、高橋歩とか、仲間が来てくれて、バンドも音楽の力でみんなで盛り上げようってことで、MAN WITH A MISSION、FUNKIST、四星球とかとイベントしたり、2012年の12月にも同じことをやったんですよ。

当時2日で1万人ぐらい来たんですかね、みんな同じTシャツ着てくれて、駅前が全部一色になった。

北村:
1万人はすごいですね!
平:
イベントをやることで、自分たちがやりたいこと、必要なことを伝えて、モデルパークに行ってもらって、いろんなところにつながっていった中で、2013年にインドアパークの大きな場所が決まったんですよ。そこまで加速していくぞということで、もう一回まちなか広場を借りようかなと思ったら、2012年の時に派手にやりすぎちゃったみたいで、借りれなくなっちゃって…。

街中でフェスやってんじゃねーよって苦情が、警察に入っちゃって、事情聴取に呼ばれて、市役所とかにも行って、でもみんな笑顔なんですよ。よくぞやってくれた!っていう。
ここまでしないと福島ってもう再建できないよっていうくらいだったから、このタイミングでこんな素晴らしいイベントしてくれてありがとう!でも確かに苦情はあったねって。
福島の街中でロックフェスをやったっていう伝説をつくったんだよね。良い意味でも、悪い意味でも。
北村:
警察までいっちゃうと次が開催難しくなりそうですね…
平:
そうなのよ。俺がやって、ある意味伝説つくって、以降はギターとかドラムはアウトで、アコースティックぐらいしかできなくなっちゃったんだよね。音量もしっかり測りますみたいになっちゃって。
で、まちなか広場でできないから、パルセいいざかっていう、飯坂温泉にあるホールで、ÜSA君とMAN WITH A MISSIONが来てくれて、さすがにフルバンドはできないから、アコースティックでやってくれて、2000人ぐらいお客さん来てくれて、無料イベントだったけど、うちの活動を知ってもらう機会になったし、寄付とかもいただいて。
そして2014年にチャンネルスクエアができたんですよ。

北村:
そういった流れだったんですね。
平:
それがインドアパークプロジェクトで、みんなの想いを継続していくために、子どもたちも来やすい環境を作るという、第三の居場所みたいなイメージで、子どもたちは全員無料でって。無料って言っちゃったもんだから、その後大変で。
北村:
無料から有料への切り替えって難しいですもんね。
平:
もう言っちゃったものは仕方ないし、2011年から2014年までがむしゃらにやってきて、やっと形になったから、正直ここから加速して、もっと頑張れって、色々応援とか寄付いただけるかなって思ってたら、おめでとうとか、よかったねっていうお声はいただくんだけど、そこで終わっちゃって。運営していく資金の確保が難しかった。
北村:
震災から時間が経ったタイミングっていうのもあったんでしょうけど、継続的に寄付とかもらうのって本当に難しいですよね。
平:
いやーほんと、そうだね。毎日がもうジャブジャブ出ていくんだよ。ここまでジャブジャブ出ていくんですかみたいなね。
もうみんな注目してくれてる状況で、応援してくれてることで、引くに引けないなーって。
続けることの力ってこんなに大変なんだみたいな。 でもまあそこで諦めずに続けてきて、そのパワーがずっと残ってたからこそ、このスカイピアあだたらのインドアパークができたっていうのも、繋がってるんだろうなって。
インタビュー:2026年2月16日






