菊地 竜生さんインタビュー(AIR JAM 2012 in 東北 ボランティアワークスタッフ) | Road to 2026.3.11 Sendai(前編)
菊地 竜生さんインタビュー(AIR JAM 2012 in 東北 ボランティアワークスタッフ) | Road to 2026.3.11 Sendai(前編)
Road to 2026.3.11 Sendai
AIR JAM 2012 in 東北
日程:2012年9月15日(土)、16日(日)
場所:宮城県 国営みちのく杜の湖畔公園 みちのく公園北地区 『風の草原』
主催:Hi-STANDARD
AIR JAM 2012が開催される2ヶ月前、仙台のサポセンで働いていた菊地さんから電話で呼び出されサポセンに行くと、AIR JAM 2012のボランティアワークをやってみないかという話をいただき、右も左もわからないままAIR JAM 2012のボランティア募集をし、AIR JAM 2012に関わることに。
2ヶ月の準備期間、会場での準備や本番中、菊地さんをはじめとするコアスタッフのみんなと一緒に試行錯誤しながら、なんとかやりきったAIR JAM 2012のボランティアワーク。
菊地さんが移住して働いている、沖縄の旧浜中学校をリノベーションした宿泊滞在型のワーケーション拠点HAMACHŪ(はまちゅう)で、東日本大震災からAIR JAM 2012、そしてその後の話を聞いてきました。

菊地 竜生さんインタビュー(前編)
菊地 竜生(AIR JAM 2012 in 東北 ボランティアワークスタッフ)
北村 孝之(ボランティアインフォ)
北村:
ご無沙汰してます!
菊地:
会うの久しぶりですね!わざわざ沖縄までありがとうございます
北村:
急な話で、いきなり来ちゃってすいません。
メッセでも送ってましたが改めて説明すると、今回来たのは、ハイスタのツアーで仙台公演が3月11日の開催で、それがやっぱり意味のあることだなと、僕は思ってて、せっかく311に、震災から15年っていうタイミングでハイスタがまた仙台に来てくれるっていうのを、そのままスルーすることもできたんですけど、なんかやりたいなって思って、AIR JAM 2012からを振り返りつつ、関わってくれた方に話を聞きにいって、インタビュー形式の記事にして発信したいなと思ってます。
菊地:
了解です。よろしくお願いします。
北村:
東日本大震災の発生した時って菊地さんは仕事中だったんですか?
菊地:
サポセン(仙台市民活動サポートセンター)にいて、ちょうどその日がスタッフ会議でサポセンのスタッフ全員集まる日だったんですよ。何か話し合ってる最中に地震で、もう机の中に隠れて。揺れが落ち着いたら、先に避難するスタッフと施設の中を確認するスタッフに分かれて動きました。僕は施設確認をしてから勾当台公園に避難したんですよね。雪が降ってた記憶があって、この時期雪降るんだなって。
せんだいみやぎNPOセンターです。大町スタッフとフラスコおおまちの入居者はみな無事で、外に避難しています。
— せんだい・みやぎNPOセンター (@minmin_npo) March 11, 2011
で、何かあったら「勾当台公園に避難」としか決めてなかったので、勾当台公園って結構広いじゃないですか?公園の中で合流できなくて大変でしたね。連絡もつかないし。
北村:
確かに。ケータイ繋がらないと連絡できないし歩いて探すしかないですもんね。
菊地:
ちょっとした事ですけど想定外でしたね。
で、この日はみんな家に帰ろうってなって、夕方ぐらいにはもう職場解散して、津波が来るかもみたいな話があったんですけど、正直なんか津波なんて全く想像してないし、 沿岸部の家の方も帰ってって、僕は広瀬通りの駐輪場に自転車止めてたんで、自転車で家に帰りました。
その日は冷蔵庫のあるものを消費して家族で楽しく食べましょうみたいな感じで、その途中に津波が来て300名ぐらいの遺体が荒浜に打ち上げられたニュースが流れてきて、嘘でしょ?そんなことあるわけないよね、と話してたんですが、翌日テレビ見たら本当にすごい津波来てて大変なことになってるなって。
ここから2、3日はとりあえず生き延びる方向にシフトしてました。電話が生きていたので、3月14日ぐらいにセンター長から電話がかかってきて、明日から来れる人だけ来てやれることやろうと思うって話をされたので、じゃあ行きますって言って職場に出勤し始めるんですよね。
その後、3月18日に妻が、仙台を離れて実家の秋田に帰るってなって、送り出したんですよ。原発のこともあったから、これで一生会えないかもしれないなと思いながら。
あともう、そこからは水道復旧、都市ガス復旧とか、暮らしは1か月くらいかけて徐々にもとに戻っていく感じでした。
最初、僕自身は沿岸部とか全然このタイミングで行ってなくて、身の回りの家族と職場の往復しかしていなかった状況ですね。沿岸部初めて行ったのは3月の末ぐらいで、父親が見てみたいみたいと話になって、父親は石巻の出身なので、その近くまで行ってみたんですが、これはもうダメだという状況で帰ってきたのを覚えてます。

北村:
仙台の街中にいるとそうかもしれないですね、沿岸部と違いすぎて。情報の格差もあるし。
菊地:
僕自身は仙台にいて津波被害に対する現場感はなかったですね。地震っていうだけですね。そこは想像力も働かなかった部分かなと思います。
北村:
仕事柄やっぱりサポセンみたいなことをやっていると、それこそうちみたいな団体が来たりとか、当時やっぱりいろんな全国からいろんな人が来たじゃないですか?なんかある程度ハブになっているみたいな機能もあるんだと思ってますが、ああいう場所があることによって人が集まったり情報が集まったりするっていうのはあったと思うんですけど、なんかその辺で菊地さんはサポセン内で具体的に何かやってたんですか?
菊地:
サポセン自体が、復興支援サポートセンターという打ち出し方をしていて、施設を無料で使えるようにしようとしていました。
それと現地で活動する団体の情報を集約してリスト化していくとか、新聞を出すみたいなのをやってましたね。
北村:
たぶんうちも駅とかで情報ステーションをゴールデンウィークぐらいからやり始めて、なんかいろんな情報収集するようになって、なんかサポセンってところにも情報ある!みたいになって、うちもいろいろ使わせてもらったりとかありましたね。

菊地:
僕自身はサポセンの中でいた部署が、貸室の管理とか、地下シアター劇場の管理とか、ハード寄りのことを担当していて、施設を復旧させるとかがメインでした。あと多かったのが、貸し室を3月11日からそれ以降約半年分の予約を一旦キャンセルするして支払い済みの利用料を返金する手続きとか、その請求書を送るとか、受け取って処理していくとかをメインで最初にやってました。

数か月経ったタイミングで、区がやっているボランティアセンターに、通常ニーズじゃないスペシャルニーズ的なものが集まって来始めていて、それどうすればいいんだろう?みたいな話が出てきた時に、じゃあサポセンのスタッフがそういう場所にいたら、もしかしたらNPOとつなげるかもしれないってなって、週に1,2回ボランティアセンターに行ってスペシャルニーズが来たときの対応をこっちでやる、ボラセンさんが受けられない相談を一旦受けて受けられそうなNPOに相談するみたいな役割をやってました。
北村:
それは必要な役割ですよね。当時のボラセン、自分も行ってましたが、ニーズを整理するのと、それをボランティアさんに渡していくので手一杯みたいなところありましたからね。
確かにボラセンで抱えきれないですよね、そういうのって。それこそNPOが仙台のNPOもそうだし、そこで足りなかったら外から来たNPOに投げるっていうやり方もそうだと思うけど、すごくいい機能ですよね。
菊地:
自分は若林区ボラセンに行ってたんですが、サポセンに当時いた1歳下のスタッフは宮城野区のボラセンに行ってました。彼は地元ってこともあって、いろんなニーズも拾ってきて、どんどんいろんな団体さんをつないでくれてて、その時僕はうまく活動できてなかったけど、彼はすごい上手にやっていて、上手というか本当に心からやってる感じで。震災前は、NPOはNPOで社会の課題を解決するもの、地域とか町内会は町のことやるみたいな、相入れないような考え方があったけれど、地域の中におけるスペシャルニーズに対してNPOができることがあるということを宮城野区で活動していたスタッフがすごい体現してくれた気がします。
たぶん「声になりきる前の声」みたいなものを本当は拾いに行かなきゃいけなかったのかなと、今考えると思います。
北村:
でもそういうのって、地元じゃないと、たぶんできないじゃないですか?人間関係ができているからこそ踏み込める部分だと思ってて、外の人間がいてできることでもないし、距離感もそうだし。
菊地:
今話していて思ったんですけど、そういう気持ちがあったから、どこかローカルにずぶっといって仕事したいって思うようになったのかもしれないです。
北村:
なるほど、そこが原体験かもしれないですね。
じゃあなんかそれで言うとなんかこう、東日本があって、そういう流れがあって、1年ぐらいしたらAIR JAMの話とかもあって、2011年の横浜は、「届け」って言ってたじゃないです?あれは追ってました?
9.18 ハイ・スタンダード AIR JAM。届け!!!
— 横山健 (@KenYokoyama) April 26, 2011
http://ow.ly/i/aMHh
菊地:
あれはもちろん追ってて、当時ツイッターでリツイートで自分も「届け」ってつぶやいてた気がするし、でも横浜には行ってないですね。なんかあんま仙台を離れたくもなかったような時期的だったし。その辺は外に出るっていう意識はなかったですね、もちろん嬉しかったのは覚えてますが。
北村:
そうですよね、2011年は知ってはいたけど、AIR JAMに行くって感覚が現実ではなかったですよね。
2012年に東北で開催ってなって、うちに菊地さんから話をいただいたのって、最初にサポセンにアースガーデンの南兵衛さんが来たところからなんでしたっけ?
あれいつ頃でしたっけ?2012年の7月とか?
菊地:
それぐらいかもしれないですね。2ヶ月前とかで、北村さんに連絡したのは覚えてて、それもなんかボランティア募集をやりますかとかっていうより、なんかAIR JAMやるらしくて、ハイスタとかBRAHMANも来るかもしれませんくらいな話だったような気が…。
北村:
なんかでもその前に会った時に、たぶん音楽の話してたんですよね、ハイスタとか聞きますって。それを覚えててくれて連絡くれたんですよね?きっとね。
それぐらいの雑談の話から急に、南兵衛さんがAIR JAMのボランティアやるの?やらないのって?いきなり決断を迫られましたね(笑)
でもあの時、やるの?やらないの?って言われ、すごい迫られて、「やります」っていう決断をしたから、今があるなって思います。
今考えると、たぶんその時決めないと、もう時間ないから、2ヶ月ちょい前だったし。集めたかったの100人とかじゃないですか? 時間軸的にもう、ギリギリの時期だったんですよね。
菊地:
南兵衛さんは、僕がARABAKI ROCK FES.でNPOブースのコーディネートしてるのを知っていて、AIR JAMのボランティアコーディネートできるか?と声がけしてくれました。 ただ僕自身はその規模感でのコーディネート経験も無かったし、当時は一スタッフで組織内で旗振る権限もなく、誰かを紹介するしかできなかった時に、北村さんを思い出しました。
北村:
まず最初に南兵衛さんに言われたのが、コアスタッフを集めろって言われて、菊地さんはやりますよね?みたいになって、菊地さんは自分があんまり動けないの分かってるから友達の三浦誠さんを呼んできて、自分は弟も連れてきて、7人くらいのチームになって、よくやりましたよね、本当に。誰もやったことないし、ほとんどフェスにも行ったことないメンバーでした。

本番含めて、記憶に残っているシーンとかありますか?
菊地:
なんか年末にEテレで流れたテレビのシーンと、自分が見たシーンがごっちゃになってる気がしてるんですよね。
STARRY NIGHTでしたっけ?スマホの明かりつけませんでしたっけ?

北村:
初日ですか?そんなことやりましたっけ?覚えてないなぁ。特に初日覚えてないんですよね。結局初日の最後のハイスタのライブは見に行けなかったですし。
菊地:
そういう意味では、前日のリハーサルをチラッと見たのは覚えてますね。あれは衝撃でした!

北村:
確かに。お客さんで行ってたら絶対見れないですもんね。
菊地:
あの光景は今でも覚えてますね、何の曲かまでは覚えてないけど。
それ以降は、AIR JAMの最中より終わった後とか、帰り道とかの方が覚えてるかもしれないですね。なんかもう眠すぎて。
車で誠の家に着いたら、なんか誠が足が痛いって言って車から降りなくて、ただ僕はもう途中たぶん半分寝ながら運転してたくらいだったので帰りたくて、無理やり降ろしたら悲鳴を上げてるけど、無視してそのまま帰った記憶があります(笑)

インタビュー:2026年1月28日






